予告編の冒頭をほんの一瞬見ただけでタイトルが分かり、初めてその作品に触れたときの感動が蘇ってくる映画は、ロードオブザリングについで人生2回目でした。

それだけ期待を込めて、また恐れを抱いて観に行きました。結論から言うと、めちゃめちゃ感動しましたが、映画としては微妙、です。(主にストーリーの面で)

感動したのは、この映画単体での評価ではなく、1978年の『スーパーマン』と1980年の『スーパーマンII 冒険編』を見た当時の感動とノスタルジーも含まれていると思います。

映画の評価が微妙と言いましたが、役者と声優の演技は本当に素晴らしかったです。
どの役者も脚本の制約の中で最大限のパフォーマンスをし、キャラクターの魅力を十分に引き出していたと思います。
同じ日に、3D吹き替え版を観て、立て続けに2D字幕スーパー版を観ましたが、特に声優さんの演技が非常に豊かで、字幕だとどうしても取りこぼしてしまう英語の微妙な意味とか感情のニュアンスがしっかりと拾われており、職人芸だなと感心しました。
これ、同日に両方の版を観たからハッキリ解ったのですが、今の日本の声優さんというのはかなりもの凄いことをしてるんだな、というのが理解できてとてもいい経験になりました。

それから、スーパーマンが飛ぶところの描写は、本当に何度観ても最高に気持ちよく、かっこよかった。
映画全編にわたり、物が高速で飛翔してるシーンが随所に出てきますが、それらは現在可能な表現の集大成、ってな感じでめちゃくちゃかっこいいです。
スーパーマンが音速を超えるときの衝撃波が雲を発生させるところとか、巨大な母艦が姿を現したときの、カメラがズームで寄ったときに一瞬遅れてピントが合う感じとか、あまりにも遠距離すぎて、大気の揺らぎで輪郭がぶれている感じなどなど・・・
これらの表現はほんとうに良くできてて、それだけでも観てよかったなと思えました。


① 1978年『スーパーマン』について


1978年の『スーパーマン』は、クラークの少年期の孤独や、両親の深い愛情と理解が時系列に沿って丁寧に描写されており、スモールヴィルの田舎町の寂しく美しい情景もあいまって、今見ても心を打つ映画です。
父親が亡くなりすっかり老いた母親を置いて、クラークはたった一人で北極へ旅立ち、出自の秘密を知ります。
そしてカル=エルというもう一つの立場との狭間に生きるスーパーマンに生まれ変わるところまでで、約50分という時間を掛けて丁寧に描いています。
この時間があったからこそ、スーパーマンの人間性の豊かさと、何より「孤独」が、とてもよく観客の心に染み入ったんだと思います。


② 自己犠牲と孤独


『スーパーマン』という作品においては、博愛に基づく自己犠牲が非常に重要なテーマでした。

自己犠牲が出てくる映画ってのは古今東西ものすごく多いけれども、私が思うに、それを観て客が感動できるかできないか、感情移入できるかできないかは、彼が孤独であるってことが、ものすごく大切なポイントだと思います。

ただ自己犠牲が描かれてるだけでは、感動は生まれません。動機となる彼の博愛が、誰にも理解されない孤独の下にあってもなお変わらないとき、その自己犠牲は初めて深く胸を打つのです。
(そういう孤独が描写されてたら、私は自動的にスイッチ入ってボロボロに泣いてしまいます)

さて、誰にも理解されぬ孤独な自己犠牲というのは、狂信的な悪の中にも存在し得ます。

つまり観客は、ストーリー次第で、善悪どっちの心理にも感情移入可能だってことだと思うんですが、それはまさにザック・スナイダー監督が得意とするところではないかと思います。

で、この『マン・オブ・スティール』ですが、そういうクラークの孤独の描写が、1978年『スーパーマン』よりも薄い、というか、はっきり言って下手かな?と思いました。

映画の長さ全体の中での、クラークの苦悩や、家族の情愛の描写については、いわゆる「尺」は十分に足りてると思います。
特に素晴らしかったのは、「お父さんの子供じゃいけないの?」というクラークに父が「お前は息子だよ」というところと、母が「お前が幼かったとき心配だった」というところの2つです。この両シーンは涙なくしては観られません。
このシーンは1978年『スーパーマン』にも違う形で登場していて、やはりとても感動的な場面になっています。
ただ、『スーパーマン』がそれらを前半に集中させて、クロニクル的にクラークの成長を追い、時間をかけ、彼の性格や環境を十分に観客に見せてから、ストーリーを大きく展開させていくのと比べると、いきなり現在のクラークから映画を始めて、カットバックで成長を回想させていく『マン・オブ・スティール』は、謎を徐々に解き明かしていくミステリーっぽい緊張はあるものの、どうしても、感情移入はそのぶん薄れます。
別の言い方すると、可愛かった頃のクラークを見てなくて、いきなりオッサンから始まるからかもしれません。
もっと解りやすく例えると、桃太郎が、いきなり鬼ヶ島に向かうシーンから始まって、道中、桃太郎の回想によってお爺さんお婆さんとの出会いや、成長過程が語られるような感じでしょうか。
(つまり「わしが育てた」感が皆無ってことです)

むしろ、クラークよりゾッド将軍の孤独感や自己犠牲のほうが分かりやすかったような気がします。
この作品はアメコミが原作であり、もともと勧善懲悪の解りやすいストーリーですから、その単純なステロタイプを打ち破るためにも、敵方に正当性を与えるのは当たり前だし、必要なことだと思います。
でも翻って、カル=エルにそれに見合うだけの、戦う強い理由があるのだろうか?と疑問が残りました。
カル=エルは自発的に戦い始めたわけじゃなく、ゾッド将軍に見つかって受動的に戦いの場に引きずり込まれたわけですから、どっかでちょっとそういう自問自答みたいなのも有ってよかったのでは?


③ クリプトン星が細密な描写になってるが、残念なことに、リアリティが失われている


クリプトン星は重力を自在に操り、星を改造できるほど工学が発達しています。
そのおかげで10万年もの間、宇宙の星々へ版図を広げ、繁栄しました。
その割には、宇宙船や、戦闘機、銃などの作動原理や描写が、現代米軍風すぎると思います。
リアリティや整合性を追及し、かつ、細かい描写をしようとすると、どうしてもこうなっちゃうんでしょうか。
このクリプトン星における一連のシーンすべてを一言で言うと、「盛りすぎ」だと思います。

私がクリプトン星で一番好きなのは、空飛ぶ竜のハラカです。
あの竜も取って付けたように登場させられて、おまけに怪我まで負って可哀想でしたが・・・

この点、1978年『スーパーマン』は、今見ると色々とまあ粗末なんですが、異常にリアルでした。
地球人には知り得ない原理や論理で、ものが作られたり人々が生活しているんだろうな、という底知れぬ感じが当時は確かにありました。
例えば、ギラギラと内側から光っているような服の感じ。よく見ると、あまり手が込んだ細工がしてあるわけじゃなく、後から特殊効果を加えてるだけです。でもすごく宇宙っぽいんです。
それと、クリプトン星の地表の様子ひとつ取っても、『マン・オブ・スティール』は乾いた深い渓谷に塔が林立しています。とってもエキゾチックでドラマチックな光景です。対する『スーパーマン』は、広い氷(みたいな結晶)の平原にぽつんと半球状の白いドームがあるだけ。
でもこの氷の平原が、実物大の惑星を遠くから写してるみたいに異常にリアルに見えるのです。どういう方法で撮影しているのか想像もつきませんが、なぜか模型には見えません。レンズの被写界深度やフィルムの解像感の問題でしょうか? 謎です。(この文を書くに当たって見なおしてるんですが、やっぱりここだけが妙にリアルに見えるんです。なんなんでしょうかこれ)

現代の映画が細密になればなるほど、リアリティがなくなるのは、我々がCGに慣れすぎているからでしょうか?
(トロン・レガシーよりも、トロンのほうがリアルに見えていたのは、気のせいでしょうか?)
説明しすぎ、っていう感じがどうしても否めません。画面に出てくる全ての物事に、何らかの理屈や理論が設定として用意されていて、現代の宇宙工学とか物理学で、細かくスマートに説明できてしまえそうな感じ。
引き算の美学っていう言葉がありますが、1978年『スーパーマン』におけるクリプトン星の描写は、語られないからこそ奥深く見えるという意味で、図らずも引き算の美学になっていたと思います。
図らずも、というのはどういう事かというと、成功したのは偶然によるところも大きいと思うからです。
別に当時の美術も、全部に説明を付けようとしてたし、科学の万能性を信じてたし、及ぶ限りの想像を膨らませたとは思いますが、まずCGがなかったこと、今よりも特撮技術が格段に劣っていたこと、SF映画やアクション映画の定型的表現が固まってなかったため、手探りで模索してたことなどが、こうした成果をもたらしたのだと思います。


④ ロイス・レインと恋におちるのが、唐突すぎます


ロイス・レインについては、役柄の重要性に比べて、描写が雑というか、可哀想なくらい適当で、
彼女が登場するシーン全体にわたって説得力が感じられなかったのが残念でした。

彼女は取材で訪れた北極でカメラを取り出し、岩壁を撮影しますが、なぜかいきなり液晶画面を拡大したかと思うと、そこにクラークが写っているのを見つけます。
まるでそこに最初からクラークがいるのを知ってたような行動ですが、あの距離と暗さでの確信的な行動はちょっとないと思います。
(まったくストーリーとは関係ないけど、彼女のカメラはニコンD3sでした。いいカメラですね)

他にも、ワールド・エンジン(惑星餅つき機)を破壊する作戦で、なぜ民間人である彼女が、C-17輸送機に乗り込んでいるのでしょうか?
こういう、「成り行き上そこに居た民間人が、なぜか作戦行動に組み込まれている」というやつ、始まったのはいつ頃からなのでしょうか。とにかく、ディザスターもののハリウッド映画(と、形だけ真似た邦画アクション超大作)にめちゃくちゃ多いパターンだと思うんですけど、いい加減やめた方がいいと思います。あり得ないでしょう?


⑤ 編集長やインターンの女の子が邪魔


デイリー・プラネットの同僚や上司が、余りにもアレすぎます。
アクション映画でよくある「大事件が勃発してるのに逃げ出さずにいて、ヤバくなってから避難を始めて、案の定間に合わずに、足を挟まれて逃げられず、ギリギリで助かるやつ」です。こうして文字で書くと友近のネタですね。この作品に関しては邪魔だったとしか言えません。
あのシーンがあるおかげで、結末が想定できてしまいます。なぜなら観客はハラハラドキドキせず、どうせ助かるんでしょ?と解っちゃうからです。
その助かり方が想像つかないほどダイナミックだったり、巧妙だったりしたらまた話は違いますが、この映画ってそういう話じゃないし、今画面で起きている事態のデカさと比べて、3人の社員が引き起こせるハラハラは、最大に見積もっても余りにもスケールが小さすぎます。
地球がぶっ壊されるかどうかという、全生命の存亡に関わるスケールの話と、3人の社員が巻き起こすハラハラ珍道中を交互にカットバックさせる恰好になってるせいで、その対比がシュールすぎて、シリアスさが薄れギャグっぽくさえなっちゃってるんです。



⑤ コメディ・リリーフ的な場面がいっさいない


またまた1978年『スーパーマン』との比較になるのですが、『マン・オブ・スティール』では、『スーパーマン』にあったような、箸休め的なコメディ要素が、まったく出てきません。
『マン・オブ・スティール』のストーリーは、1978年『スーパーマン』及びその続編1980年『スーパーマンII 冒険編』の2作品と、ある程度同じ題材・登場人物になっていて、セリフも描写もところどころで共通していますが、コメディ要素に関してはゼロになってます。
けど、「これ、わざと?」と思うような微妙なシーンもちょくちょくありました。

例えば、カル=エルが、南インド洋に設置された惑星餅つき機と死闘を繰り広げるシーン、海面に叩きつけられて画面がホワイトアウト・・・からの、埃で真っ白になった編集長の顔が下からヌッと現れるところとかです。
あと編集長がらみで言うと、上の項目で書いた、インターンの女の子が足を挟まれてハラハラ・・・っていうのも、もしかしたら逆にコメディ要素だったりは、しないですよねさすがに。

カル=エルとゾッド将軍の最後の決戦では、宇宙空間までが戦闘の舞台になります。
過去にカル=エルが自分の力の限界を試した場面では、海の上で一瞬にして超音速まで加速し、アメリカ大陸からアフリカのサバナまで飛び回るところが描かれていましたが、こうした超人が2人もいて、そいつらが全力で戦うわけで、メトロポリスのビル群を破壊しまくって、宇宙まで飛び出し、人工衛星に激突して地球に墜落、という実に壮大な描写があります。
でもそのスケールなのに、墜落した先はもとのメトロポリスの近所のビルなんですよね・・・
おかしいでしょこれ。
もんのすごーーく鋭角な放物線を描いたんでしょうか?
ハンナ・バーベラのアニメかよ・・・ってツッコミ入れそうになります。

あとこれは意地悪な見方すぎるかもしれないけど、ゾッド将軍がカル=エルとの最後の戦いで「私は戦士として生まれてきて、これまでの生涯をかけて鍛え上げてきた。お前はどこで鍛えた? 農場か?」とか何とかいうシーンがありますが、ゾッド将軍って、エル家の親父ジョー=エルに負けてましたよねクリプトン星で。んでこの後、カル=エルにも負けるわけだけど、農民つええ。てか、戦闘のスペシャリスト弱すぎじゃね? とちょっと思ってしまいました。そら滅びるわ。

あと、もう一つ、これはめちゃくちゃマニアな描写というか、おおっと思ったシーン。
アメリカのSF作家ラリイ・ニーヴンが1971年に書いた、『スーパーマンの子孫存続に関する考察 (原題:Man of Steel Woman of Kleenex)』という短編のなかに、次のような一節があります。

「 子供時代のスーパーマンは、X線眼を抑制できるようになるまで、ものに表面があることすら知らなかったかもしれない。 」

 これ、9歳のクラークが授業中に突然、情報の遮断ができなくなって、先生とクラスメイトの顔が骨や筋肉まで透けて見えるという描写そのままです。この後母親の言葉で落ち着きを取り戻し、見たい物に集中することを学びます。もう40年も前の短編なので、まさかここから取ったということはないんでしょうが、原作のコミックスにそういうアイディアが登場しているのでしょうか?
 
 ちなみにこの短編は、カル=エルが30過ぎの童貞であることは間違いないという推測から始まり、どうやって地球人の女性と性的関係を結ばせ、子孫を残すか、という考察をしたもので、めちゃ面白いです。
 原題のクリネックスという単語をみると解るとおり、マスターベーションの考察も出てきます。
 ・クラークは透視ができるので、年頃になるころには、何をどうすればいいか完全に知っていた、とか、
 ・クリプトン人の精子は人間のそれとは違って一匹一匹が超常能力を持った破壊不能なシロモノだと推定され、それらは栄養不足で死滅するまでの数日間のあいだ、卵子を受精させようと街中を光速で飛び回ることになるが、そうした危険な事態が、思春期のクラークがマスターベーションをするたびに起きていたはずだ、
 といったアホな話がたんたんと述べられています。
 私は、二次創作という概念を、この作品で知りました。



⑥ エロス(性愛)とアガペー(博愛)の描き分けの困難さ


カル=エルもゾッド将軍も、愛に突き動かされて戦っています。ゾッド将軍は元々クリプトンを守るために生まれた戦士なので、それだけしか出来ないようにプログラムされている、とは言え、彼には選択の自由が存在していない分だけ、同胞の民に対する保護欲求というか衝動は強いのではないでしょうか。
カル=エルにとっても、クリプトン再興の望みを絶たれたゾッド将軍の絶望の深さは、自らの孤独や戦う動機を重ね合わせることで、容易に理解できるところであったろうと思います。
ゾッドを殺してしまった後で苦悩の叫び声を上げたのは、深く理解できていたからこそでしょう。

ただ惜しいことにクライマックスといえるこのシーンでは、ちょっと描写の荒さが目立ちました。
ゾッドに熱線で殺されかけた家族が、助かったはずなのにホールから消え失せてしまったり、遠くに居たはずのロイス・レインが徒歩で戦いの最中にかけつけたりする雑な感じは、興ざめとしか言いようがありません。
ここが雑なために、カル=エルの苦悩がいまいち明確に響いてこない。一応のところは上記のとおり、見てて解るんですが、もっとガツンと直球で来てほしかった。

あと、ロイス・レインが、カル=エルが苦悩の叫びを上げたとき、階段を駆け下りて抱きしめ、慰めますが、これも順序が違うでしょうとしか言いようがない。
これって、エロスがアガペーよりも上っていう扱いになっちゃってませんかね?
だって抱きしめられてカル=エルの苦悩は収まるわけだから。
もしかして、作中で語られてはいないが、実はロイス・レインに、アガペーゆえの苦悩を一瞬で収められるような、神のごとき深い慈愛がある・・・ってことはないでしょう、さすがに。あのシーンは普通にラブロマンスの一種だと捉えるべきです。
もちろんロイス・レインにも人類愛・同胞愛はありましょう。だからこそC-17に乗って危険な作戦に参加したんでしょう。
しかし、ゾッド将軍との最後の決戦が始まる前のところで、濃厚なキスシーンを演じさせてしまってるので、ここでロイス・レインがカル=エルを抱きしめた理由が、カル=エルの苦悩の中身を理解しての行動だとは、残念ながら考えにくい構成になってしまっています。

このシーンは、まず第一に、助かった家族の元にカル=エルが歩み寄り、安否を気遣う描写がほしいし、その上で、ゾッド将軍に対する複雑な心境(同情、悔恨、諦念etc...)を吐露するとかしてほしかった。
シーンが長くなりすぎるために編集の都合で家族を消し去ったなら、家族の描写はなしでもいいけど、例えばゾッド将軍に同情的な視線を向ける、とか何でもいいので、戦っていた2人がお互いの動機を理解し合っていた、という悲劇性を何らかの形でもう少し強調してほしかった。
(ていうか、編集長と一行のドタバタ救出劇なんてカットして、その分の尺をこっちに回せよって感じです)
でそのあと、ロイス・レインがそのカルエルの苦悩を思いやって、慰めようと近づくが、カルエルは叫び声を上げて、そこから飛び去って行方不明になってしまう・・・・(エロスではアガペーに勝てないという描写)
っていうような構成にしてほしかった。

と、ここまで書いて何ですが、あの家族、ほんとに助かってますか?
2回見たんですが、1回目は見落としたのかと思って、2回目は念入りに注目してました。でもゾッド将軍の首を折るシーンの直後にはすでに、家族が居たはずの壁際には誰もいないような感じに見えたのですが、どうなんでしょう。
どうしても気になって、ネットで他の人の感想をいろいろと読ませていただいたところ、私がチェックした範囲では例外なく、家族は助かったことになってました。
これ、ちゃんと助かる描写があったのに私が2回とも見落としたのか、それとも、描写はないけどそういうお約束として解釈すればいいのか、はたまた、やっぱり本当に死んでるのか、ちょっと微妙です。
これがもしも、家族が殺されているのだとしたら、上記の考察はすべて無意味で、カル=エルの叫びは単純に「助けようとした家族を助けられなかった悔恨の叫び」だし、ロイス・レインの行動や意味も正しい、ということになると思います。
(だからカル=エルが安否を気遣う描写がほしいんです)

⑦ おっさんにはオススメ


というわけで、いろいろと雑なところがあり、特に終盤に向けてだれてきますが(ゾッド将軍との最後の決戦は要らなかったのでは・・・とか)、昔『スーパーマン』を観て感動したことがあるオッサンの皆さんには、この『マン・オブ・スティール』はかなりオススメです。
スーパーマンに関する予備知識があればすごく楽しめますし、多少の構成の雑さとかは脳内で補えるので、ちゃんと感動できます。
でも、これがスーパーマン初体験って人にとってはどうなんでしょう? 特殊効果やCGはもの凄くかっこいいですが、ストーリー的には、まあよくあるレベルに落ち着いてるのかな? って感じじゃないでしょうか。
ですので、初めての人はぜひ3Dで観た方がより楽しめると思いました。

以上です。