◆ メタ視点とスラップスティック
このカーチェイスのパートまで至ると、もう隠しようもなく、この映画をストーリーものとして収束させようとしているのではないことが判明します。
(上で、岸谷が嵐くんのことを、よだれくんなんてヘンな呼び方で呼んでるのもその表れの一端です)
もちろん最初からそのつもりはなく、どのタイミングでストーリー性を破壊するか、いや、破壊するための伏線を当初から配置していたと、どこで観客に暴露するかが、焦点だったと思われますが、それが、まさにこのカーチェイス以降の一連のシークェンスです。(警察や救急に連絡せず逃げた時点でここまでのフィクション・ラインの蕩揺が始まります)
観客はホラーコメディとしての体裁やストーリーが整った普通の映画と思って観ていますが、そのうち徐々に「ここまでやると普通の日常的なストーリーに回収できなくなるんじゃ・・・」というシーンが挟まりだし、「これどうすんの? 色々盛りすぎじゃね?」と疑念が膨らみ始めたと思った次のパートではもう完全に決壊・カタストロフが訪れる、といった感じです。
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もう一度言い直すと、観客は、この映画が「単一のフィクション・ラインに沿って
作られている」ことを当然予期してここまで観てますが、そんな保証は最初からなかった、ということが
暴露されたのがこのカーチェイスパートです。
さて我々は、こうした作りのフィクション作品を、実はよーく知っています。
筒井康隆の初期の作品群です。
初期の筒井は、単一のフィクションラインを保持せず、むしろ積極的に破壊し、物語の中にメタ視点を持ち込み、TVバラエティー的なドタバタ感やまとまりのなさ、猥雑な流行語を無造作に取り込むなどしてスラップスティックSFを完成させました。
こうした作品の中には、批判的な意見を披露する評論家を悪役として配し、作家の分身を正義の側に描くことで溜飲を下げるなどといった、今から思うと相当“ドイヒー”な事を平気でやってるものもいくつもあったりします。
当時の評価はさんざんで、激しいバッシングをあびる一方、乱痴気騒ぎに浮かれた熱病的で幻想的な作風・描写を高く評価する声もありました。
翻って今回の松本人志『R100』はどうでしょうか。
「劇中劇」のパートなど、ネットではこれ以上ないほどボッコボコに叩かれてます。
曰く、
・自分の作品が売れないことが解ってるから、言い訳の為に入れたんだろう。
・メタ視点を入れることで、客観視できてる俺の方がお前ら(客)より上だと言いたいだけ・・・
などなど。
でも仮にこの作品が「松本人志 脚本・監督」ではなく、「筒井康隆 監修・脚本」だったとしたら・・・
きっと、スラップスティックの映像化に成功したと評価されたのではないでしょうか。そう俺は思います。
「筒井康隆の、あの世界観を、みごとに完全映像化!!」と絶賛されていたに違いないと思います。
そこまで行かなくても、駄作、金のムダ、監督として終わり、などと酷評されることはなく、少なくとも、監督としての評価は留保されていたことだろうと思います。
でももちろん、これは筒井作品ではなく松本作品なので、そんな if はあり得ません。
ではこう考えてみましょう。
これが脚本家・松本人志の企図した通りの表現だったとしたら、どうでしょうか?
松本は公開前から何度も、色々な機会に、
「メチャクチャやったろうと思って、メチャクチャやりました」
「コメディじゃないです」
「脚本を最初に完成させました」と公言してきました。
これらは全て、才能がなく、いよいよ後がなくなった老害芸人の、最後の言い訳だと解釈されてきたわけだけど、そうじゃなくて、ホントのホントに言葉の通りだったとしたら?
いきあたりばったりにデタラメをやって、他にどうしようもなくこんな風になってしまった、のではなく、この映画の隅々まで、脚本が企図した通りの演技、演出、効果が現れているのだとしたら・・・
だって実際、メチャクチャだし、コメディではないし、ホラーでもない。
ちゃんと宣言どおりの物が出来てます。
これ、本当に計画的にメチャクチャやり切ったということなら、割とすげーことだと俺は思います。
(狙ってやってるのに、単なるデタラメという誤解があるとするなら、それはかつての筒井批判と全く同じ構図です)
松本が言う「メチャクチャ」というのはフィクション・ラインの破壊と重層化のことでしょう。
これは、小説では上記の通り筒井によって実現されていたものですが、その映像化は非常に困難でした。
筒井作品は過去何度も映像化されていますが、最良の作品でも、この『R100』ほどみごとにフィクション・ラインの重層化と疾走感を実現したものにはなっていませんでした。
(松本が筒井スラップスティック作品をパクった、と言ってるんじゃないですよ?
そこはお間違えなきよう。むしろ筒井作品に引きずられて、パクってこの『R100』の脚本が書けるんだったら、その人は脚本の天才だと思います)
で、俺はこの見方のほうが、この映画をより総括的に観れるので、この見方で行きたいと思います。
あえてバカにしたり矮小化して、対象をみすぼらしく捉える必然性はないからです。
最初からバカにするんじゃなく、出された作品をニュートラルな目で鑑賞するためには、難しいことですが、過去作から来る先入観を捨てないといけないと思います。
(また、そういう風に先入観を捨てたところからスタートして、観客にとって、面白い面白くないや好き嫌いが論じられる事が、この作品にとって公平な立場だと思います)
ってわけで、そういう見方で行こうと決めて、この先を鑑賞することにしました。
◆ 崩壊と発散
先ほど少し触れた、「劇中劇」のパートですが、ここまでで都合2回ほど登場しています。
最初は5人の男女が喫煙所で休憩を取り、なにかに困っているらしいシーン。
次ではその中の一人が「これどうするの?」みたいな問題提起をする。
彼はこうも言います「あの、揺れてる?っていうの、なに?」それに答えてアシスタント風の男性が「あれは現代人の共通認識を表してるんだそうです」とか何とかいいます。
これは、作中でさまざまな人物がふとした瞬間に言う「あれ?今揺れてる?」などと地震を疑うセリフについての話題です。
初出は嵐くんのバースデーを祝ったあと、片山家から帰る際の義父です。
この時観客はホラーっぽい作品だと思って観ていますので義父の、揺れてる? は非常に不吉な響きを伴って聞こえます。
例えば何かの病気の前兆がこの家族を襲うのでは?といった風に。
しかし劇中劇パートで評論家が言及することで、まさにこの劇中劇で言及させることそのものが目的のフックであって、義父の身を悲劇が襲うわけではない、と判明します。
他にも例えば松本人志演じる警察官が「揺れてる?」と言いますが、特に何も起きません。
追記:何も起きませんと書きましたが、よく考えたらこの揺れてる?シークェンスはもの凄く重要な部分だと気付きました。
映画はここでボンデージのCEO(リンジー・ヘイワード)が登場します。
支配人のところへ下っ端女王様が駆けつけます
「大変です! CEOがこちらへ到着するとの報せが!」
片山との戦いに業を煮やしたCEOは、ついに自ら日本へ乗り込み、直接決着を付けることを決意したのでした。
ここで唐突に、CEOの印象についてのインタビューが挟まります。
「エレベーターで一度お会いしたことがあるんですよ。私みたいな駆けだし女王様はどうせ顔も覚えて貰ってないだろうなって、黙ってたら、CEOから名前を呼んでくださって。感激でした!」
「CEO・・・ですか。女王様の中の女王様・・・って感じですかね」
日本に到着したCEOは怒り狂い、ボンデージ地下にある専用プールに何度も何度も飛び込んで
暴れます。
3回目の劇中劇
「CEOってさあ、SMクラブにCEOなんて、要るの?」
「さあ・・・」
試写室の中では、年老いた映画監督が遺作として撮ったこの『R100』を観ています。
さて本編は、片山と別れた岸谷が、節子さんを救助すべく病院へ侵入するシーンです。
夜中の病室に忍び込んだ岸谷がベッドの上に見つけたものは・・・
丸呑みの女王様(片桐はいり)が節子さんをカエルのように丸呑みにしていたのです。その口からは節子さんの足だけが覗いています。
岸谷は恐怖と衝撃のあまり絶叫します。
ここでまた劇中劇。
「丸呑みの女王様・・・ってねえ・・・ダメでしょうこれ」
「あの部分はカットするっていう手も」
「なるほど、それいい手だね」
「ダメです。丸呑み、このあとも出てきます。繋がらなくなります」
「・・・はあ~・・・」
一方片山は、山道をひた走り、道中の公衆電話で義父へ注意を伝えます。
「僕がそっちに着くまで、窓と玄関に鍵をかけていてください」
「ああ、わかった、夜遅いから気をつけてな」
と答えた声の主は、声の女王様。すでに時遅し、義父は声の女王様と丸呑みの女王様に襲われ、すでに胃袋の中に収まったあとでした。
やがて片山が杉浦家に到着しますが、義父の姿はもちろんありません。
母屋の中を呼び歩く片山、ダイニングを覗くと、女王様2人がテーブルに腰掛けています。
反射的に拳銃を抜き、2人の頭を撃ち抜いてしまう片山。
そこにボンデージCEOから電話がかかってきます。
英語で4文字言葉をまくし立て、口汚く罵るCEOに、とうとう片山もブチ切れ、流暢な英語で来るなら来い受けて立ってやる、と宣戦布告するのでした。
いよいよボンデージ軍団と片山の最終決戦が始まります。
杉浦家の母屋の真向かいに、ボンデージ軍が本陣を構え、松明を灯します。
CEOが手にしたムチをサッと振り下ろすと、ボンデージ女王様軍団が、隊列を保ちながら家に向かって行進を開始します。
一方の片山は、丸呑みの女王様が残したトランクケース一杯の手榴弾を持ち、二階の窓から隊列に向けて投下します。
爆発で空中を飛び交う女王様たち。母屋の前は死屍累々です。
戦いが膠着状態を迎えたことに業を煮やしたCEOは、自ら母屋に向けて進み始めます。
片山は手榴弾を投げますが、歩みを止めることはできません。
そしてとうとう家への侵入を許してしまいます。
CEOはいともたやすく片山を捉えて、ヘッドロックで引きずりながら家を出てきたかと思うと、母屋の脇に建っている小屋に引きずり込みます。
中ではいよいよ最後のお仕置き開始。
ここからはカメラは2人を追わず、小屋の外壁を固定カメラで写したままのシーンになります。したがって小屋の中の様子はうかがい知ることはできませんが、片山が官能の波紋を立たせるので、今だいたいどの位置にいるのかが外に居る者に(観客に)分かります。
この不自然な固定カメラには理由があることがすぐに判明します。
お仕置きが続くうちに、小屋の板壁が光り始めます。板と板の継ぎ目から、中の光が漏れて、あたかも中で火事が起きているかのようです。
でもそのまま大きな変化は起きず、お仕置きの波紋が光る板壁をゆらしつづけます。
BGMに第9の歓喜の歌が流れ出します。
よく見ると、光が漏れる板壁のすき間は5本あり、それが五線譜を表しているのでした。
BGMの歓喜の歌に合わせて、片山の歓喜の波紋が、五線譜の上を音符のように踊ります。
それに合わせて、外にいる女王様軍団が、手に手に楽譜を持ち合唱をはじめます。
いよいよ光を増していく壁面、高まる合唱。
回想シーン。
メリーゴーランドに乗る片山に支配人が高らかに告げる
「MはMを究めるとSになる。そして・・・Sを身ごもる!」
パンツ一丁の片山の腹が妊婦のように膨れている。
幸せそうな笑顔。
片山は妊婦セルフヌードを撮影中らしい。
イスに腰掛けたり、ひな壇に立ったりしてシャッターのレリーズを切る片山。
そこに息子の嵐くん登場、やはりパンイチ。
片山の腹に耳をあてたり、にこやかに並んで立ったり、そのたびにシャッター。
(妊婦ヌードをかなり小バカにした、いわゆるあるあるネタでしょうこれ、つい笑ってしまった)
『R100』の試写会場
老監督の満足そうな笑顔、喜悦の表情から官能の波紋が拡がる・・・
エンドロール
評論家たちが頭を抱えてため息をつく。
終劇。
CEOの登場からあとの終盤は、もう誰も笑ってないというか、何が何やらわけがわからないという諦めの空気が劇場に漂ってて、これはこれで面白かったです。
そらそうやろなあ、わかるわかる、みたいな。
ていうか最初から、公開2日目なのに客入り10%くらいだったと思いますが、空いてるせいで笑えるところも声だして笑っちゃいけない空気になってて、そこはちょっともったいないなあと思いました。
まあでも前半がきっちり映画として完成できてたのは良かったんじゃないでしょうか。これから監督としても再評価が高まると思います、これ。
ストーリーもちゃんと書けてて、演出もいつものくどさが鳴りを潜めていたし、編集もメリハリがあるカットになってて、「やれば出来るじゃん!!」と強く思いました。普通のエンタメとしてそこそこ面白かったです。
巷ではあいかわらず、「ちゃんとした起承転結のある映画を撮りきる力がないことを誤魔化すために、奇策に走っている」と受け止められていますが、たぶん、やればできると思います本当に。
上で筒井康隆の話をちょっと書きましたが、筒井がスラップスティックで物語をぐちゃぐちゃに破壊したり、『虚人たち』なんて作品でメタフィクションをメインテーマにする一方、『旅のラゴス』というガチガチのハイ・ファンタジーで緻密な物語を作り上げたように、松本人志も、それこそガチで恋愛ものとか撮ってみせてほしいと思います。
次はできればもう一回、この『R100』の路線でよりテーマを深化した作品を完成させてほしいと個人的には思いますが、その後には松本人志の『旅のラゴス』がそろそろ必要とされる時代が来るんじゃないでしょうか。(吉本興業の資金が底を尽きなければ)
◆ 終わりにもう一度、劇中劇について
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さてこの作品の最大の問題点であり、最も激論を呼びそうなポイントとなるのが評論家パートだと思いますが、これは、多くの人が指摘してるように、メタ視点を借りて自己弁護に走っただけなのでしょうか?
追記:ところでなんの疑問も持たずにさっきから「評論家」と書いてますが、彼らは本当に評論家なんでしょうか?
それにしては、映画の内容を「カットしたら?」なんて提案したり、深刻なため息をついたり、おかしいですよね?
評論家って内容に一喜一憂しませんよね、どう考えても。
ネットでは評論家だとする感想が多く見られ、俺もそれを疑問を持たずに踏襲して書いてきましたが、あれって評論家じゃなくスポンサーとか関係者です。そしてアシスタントっぽい男女は、この映画の宣伝担当です。たぶん。その方がセリフの整合性が取れるからです。
つまりこのパートは、世間一般の観客や評論家に向けたくすぐりではなく、出資者である吉本を皮肉ったパートだと考えられます。最初に戻る
俺はさっき書いたとおり、この試写会パートは自己弁護ではないと思います。
最大のポイントは、このパートそのものが独立して推進力を持っていることです。
最初は謎の5人組、場所も判然としない、そのうち画面のテロップなども手伝って、状況が飲み込めてきます。
「揺れてる、って、なに?」というセリフは、まさに観客が「揺れてるってなに?」と思って忘れていた頃に登場するため、それなりにインパクトを与え、このパート自体に対する興味の持続と、推進力をもたらすことに成功しています。
これを批判的に観る人にとっては、非常に言い訳めいた自己言及に見えると思いますし、確かにそうした解釈が、成り立たないとは言えません。
しかし、作中に予め自己批判を盛り込むことで、批判的な見方や、さらには興行収入が奮わないことへの担保とする、などという浅はかなことを、松本人志がするでしょうか?
それがこのパートの目的だと思う人はちょっと考えてください。映画が完成したのって、いつなんでしょうか? 公開の何ヶ月も前、プロモーションが始まる前ですよね。そんだけ時間があったら、そんな言い訳するほど売れないって解ってる作品はお蔵入りにしますよね? (少なくとも、素材を再編集し別の平凡なストーリー映画の体裁に整える時間は十分にあったはずです)
というか彼は、それが自己弁護として通用する、と考えるほどのアホでしょうか?
松本人志は、先に自虐ネタを仕込むことで、客を出し抜いた、と満足するほどのアホでしょうか?
書けば書くほど、それは違うだろ、と思えてきます。
これは「メチャクチャやったる」の一つであり、やはりフィクションラインの重層化の一環だと俺は考えます。
先ほど筒井作品について述べましたが、かの作品群も、やはりメタ視点が重要な要素として作用しており、当時から、作家本人もそれに言及していた通りでした。
ただその内容はというと、初期のスラップスティック作品においては、単に作品外から作家が作品に干渉するだけのドタバタだったり、気の利いた味付けとして自己批判キャラを登場させるだけ、といった程度だったのです。
その異化作用を哲学的に深化し、のちの作品に繋がっていくにつれ、評価も高まるのですが、最初はやはり、今回の松本人志のように、言い訳、マンガ、文壇への反逆と捉えられ異端視されていました。
その頃の筒井康隆はよく、評論家からはコテンパンに書かれるのに、作家からは一言の反論も許されていないとは不公平だ、などと作中人物に語らせていたり、エッセイに書いたりしていたものです。
というわけで今回の『R100』は、松本人志監督が自虐に走ったのではなく、フィクションの重層構造の自発的な描き方に目覚めたターニングポイントになる作品だったと思います。
これまでの3作品はそれがやりたかったんだけど、ずっと下手くそだった。
ギャグにこだわり、コントの手法から脱せなかったため、フィクションラインの構造への言及に至れずじまいだった、と思います。
本当は、これがやりたかった事で、そのやり方がまだ下手なりに分かり、表現できたのが『R100』だと思います。
そういう意味で、これまで3作以上に、明確に次に傑作が出てくるのでは?という期待をもって次回作を待つことができると思います。
最悪だったのは『しんぼる』とそれに続く『さや侍』でした。枠だけすげ替えて、中身はTVコントのまま、という吉本の内向的な自己陶酔が衆目に晒された映画だったと思います。
『R100』が、作品として楽しい、笑える、というのとは別ですよ、もちろん。
爆笑を期待してると馬鹿を見ると思います。そういうシーンもあるけど、それに気付いて笑えるよりも、ストーリーがぐっちゃぐちゃに破壊される事に驚いてしまい、引いてしまうほうが先だと思います。
引かずに、ああこれ、スラップスティックなんだな、と切り替えられたら、笑える余裕が持てると思います。
interesting なことは間違いないけど、funny かどうかは人を選ぶってことですね。
これ観て怒る人は・・・そうですね、かつて筒井康隆を読んで切れていたPTAみたいな石頭だと思います。
切れることないじゃん。
以上です。
********************
※ 「揺れてる?シークェンス」について↑最初に戻る ↑元に戻る
上では簡単に、「劇中劇で言及させることそのものが目的」だと書きましたが、これって、よく考えると、本編のストーリー側から、メタフィクション側への「逆いじり」みたいな形になってるんですよね。早い話がボケです。試写会出席者がツッコミです。
このシークェンスを順序立てていくと、
1 まず義父が帰宅するときに「あれ? 今揺れた?」と言う。この時はそれっきりで放置され、後で出てくる伏線として観客には認知されます。
2 映画が進み観客が義父の「揺れてる?」を忘れた頃、メタ視点の試写会パートで「あの、揺れてる?って、なに」という説明シーンが入った直後に、
3 本編ストーリーで誰かもう一人が(失念)「揺れてる?」と言うんだったと思います。
(2と3は逆かもしれません)
この順序で分かることは、彼らが試写会で観ている『R100』と、我々が劇場で今観ている『R100』は、時系列を同じくしていないということです。試写会の映画のほうが、ちょっと先を行っています。
なぜなら、ここまでで「揺れてる?」というセリフは義父の一回しか出てきておらず、観客にはただの伏線だとしか認識されていませんので、試写会出席者が「あの」というのは違和感があるからです。「あの」というからには、少なくとも複数の人間か、もしくは伏線が回収される前にもう一度義父が同じセリフを言うなどし、不自然さが発生しないといけません。
(上の2と3が逆だった場合は、この部分はうろ覚えに基づく俺の考えすぎです。が、この先の論考は大意同じです)
と、ここまで観客に分からせた上で、直後に再び、「揺れてる?」が入りますが、これでハッキリと、このセリフは伏線ではなく、ストーリー側からメタ側への「逆いじり=ボケ」なんだと判明するのです。
ボケだと判明したからには、この先同じセリフがいくつ出てきても、何らかの伏線ではなく小ネタだと判定できますので、このセリフはもうこれ以上出てきません。これ以上はしつこいだけだからです。
実際、だいぶ後になってもう一度だけ、松ちゃんの警察官がわざとらしく「あれ? 揺れてる?」と言い、それでこの「揺れてる?シークェンス」は終了なんだな、と観客にも分かって、おしまいです。
でその「逆いじり=ボケ」があるから何だ?という話なんですけども・・・
2つあります。
1つには、フィクション・ラインの揺れです。ここまでの作中では、『R100』は片山が主人公の物語です。そしてそれと同じ映画を流している試写会パートが、メタ部分だと思っています。ところが片山の居る世界と試写会パートの世界が互いに干渉可能だということで、2つの世界のフィクション・ラインに揺れが生じるのです。
観客はなんとなく、片山の方がどっちかというとリアリティがないフィクションらしい世界観に生きていて、老監督その他の関係者は、より観客の世界に近いところ(リアルな世界)に生きていると思ってますよね。
でも、干渉できるということは、片山が主人公の世界で起こり得ることが、もしかしたら、メタ側でも起こり得るのでは?という可能性を表すことになります。
2つめはより重要です。これって本編とメタフィクション部分(劇中劇)が一体不可分に作劇されたということを示しているんですよね。
このことを、よく考えてみてください。
『R100』を観る際、我々はなんとなく、本編が先に形作られて、後からスパイスとしてメタ部分が乗っけられた、と思ってみています。
なぜかというと、試写会パートは短いし、一見すると、いかにも添え物っぽい、後付けっぽい、要するにあざとさが前面に出たパートだからです。
(こういうの付け足しておけば、映画っぽくて賢そうに見えるんだろ?的な)
なにせ多くの観客が、松本は映画の失敗を糊塗しようとして、メタ視点を持ち込んで言い訳した、と勘違いしているほどですから。
しかし、1で言及したとおり、添え物っぽくて後付けっぽいメタパートに対して、本編側からの「逆いじり」が描かれているということに気付くと、一転、添え物ではなく、後から付け足した小ネタでもなく、わざとらしさやあざとさは、企図されたものだということが見えてきます。
しかし残念ながら、この「揺れてる?シークェンス」は、1つの映画的なくすぐりとしてしか認識されておらず、それが示す重層的な構造の断面に気付く人は、今のところほとんど居ないようです。
いかにも松ちゃん的なシュール小ネタっぽさが、あまりにも上手く行きすぎてしまったため、その匂いがきつすぎて大事な部分がマスキングされてしまった感があり、ちょっと残念です。
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上では簡単に、「劇中劇で言及させることそのものが目的」だと書きましたが、これって、よく考えると、本編のストーリー側から、メタフィクション側への「逆いじり」みたいな形になってるんですよね。早い話がボケです。試写会出席者がツッコミです。
このシークェンスを順序立てていくと、
1 まず義父が帰宅するときに「あれ? 今揺れた?」と言う。この時はそれっきりで放置され、後で出てくる伏線として観客には認知されます。
2 映画が進み観客が義父の「揺れてる?」を忘れた頃、メタ視点の試写会パートで「あの、揺れてる?って、なに」という説明シーンが入った直後に、
3 本編ストーリーで誰かもう一人が(失念)「揺れてる?」と言うんだったと思います。
(2と3は逆かもしれません)
この順序で分かることは、彼らが試写会で観ている『R100』と、我々が劇場で今観ている『R100』は、時系列を同じくしていないということです。試写会の映画のほうが、ちょっと先を行っています。
なぜなら、ここまでで「揺れてる?」というセリフは義父の一回しか出てきておらず、観客にはただの伏線だとしか認識されていませんので、試写会出席者が「あの」というのは違和感があるからです。「あの」というからには、少なくとも複数の人間か、もしくは伏線が回収される前にもう一度義父が同じセリフを言うなどし、不自然さが発生しないといけません。
(上の2と3が逆だった場合は、この部分はうろ覚えに基づく俺の考えすぎです。が、この先の論考は大意同じです)
と、ここまで観客に分からせた上で、直後に再び、「揺れてる?」が入りますが、これでハッキリと、このセリフは伏線ではなく、ストーリー側からメタ側への「逆いじり=ボケ」なんだと判明するのです。
ボケだと判明したからには、この先同じセリフがいくつ出てきても、何らかの伏線ではなく小ネタだと判定できますので、このセリフはもうこれ以上出てきません。これ以上はしつこいだけだからです。
実際、だいぶ後になってもう一度だけ、松ちゃんの警察官がわざとらしく「あれ? 揺れてる?」と言い、それでこの「揺れてる?シークェンス」は終了なんだな、と観客にも分かって、おしまいです。
でその「逆いじり=ボケ」があるから何だ?という話なんですけども・・・
2つあります。
1つには、フィクション・ラインの揺れです。ここまでの作中では、『R100』は片山が主人公の物語です。そしてそれと同じ映画を流している試写会パートが、メタ部分だと思っています。ところが片山の居る世界と試写会パートの世界が互いに干渉可能だということで、2つの世界のフィクション・ラインに揺れが生じるのです。
観客はなんとなく、片山の方がどっちかというとリアリティがないフィクションらしい世界観に生きていて、老監督その他の関係者は、より観客の世界に近いところ(リアルな世界)に生きていると思ってますよね。
でも、干渉できるということは、片山が主人公の世界で起こり得ることが、もしかしたら、メタ側でも起こり得るのでは?という可能性を表すことになります。
2つめはより重要です。これって本編とメタフィクション部分(劇中劇)が一体不可分に作劇されたということを示しているんですよね。
このことを、よく考えてみてください。
『R100』を観る際、我々はなんとなく、本編が先に形作られて、後からスパイスとしてメタ部分が乗っけられた、と思ってみています。
なぜかというと、試写会パートは短いし、一見すると、いかにも添え物っぽい、後付けっぽい、要するにあざとさが前面に出たパートだからです。
(こういうの付け足しておけば、映画っぽくて賢そうに見えるんだろ?的な)
なにせ多くの観客が、松本は映画の失敗を糊塗しようとして、メタ視点を持ち込んで言い訳した、と勘違いしているほどですから。
しかし、1で言及したとおり、添え物っぽくて後付けっぽいメタパートに対して、本編側からの「逆いじり」が描かれているということに気付くと、一転、添え物ではなく、後から付け足した小ネタでもなく、わざとらしさやあざとさは、企図されたものだということが見えてきます。
しかし残念ながら、この「揺れてる?シークェンス」は、1つの映画的なくすぐりとしてしか認識されておらず、それが示す重層的な構造の断面に気付く人は、今のところほとんど居ないようです。
いかにも松ちゃん的なシュール小ネタっぽさが、あまりにも上手く行きすぎてしまったため、その匂いがきつすぎて大事な部分がマスキングされてしまった感があり、ちょっと残念です。
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