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65 名作の予感・少年チャンピオン連載 荒達哉『ハリガネサービス』

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『弱ペダ』を読むため、ここ1年ほど毎週少年チャンピオンを買っているおっさんがいる。私です。

『弱ペダ』はもちろん押しも押されぬ看板タイトルだが、実は何を隠そう、おっさんが今一番楽しみにしているマンガは別にある。
それが『ハリガネサービス』だ。

ハリガネサービス 1 (少年チャンピオン・コミックス)

おっさんがチャンピオンを買い始めたのと同時に連載を開始したハリガネサービスは、第1話から妙に目を引く作品であった。
そして最初から大変好ましく感じ、以来注目し続けている。
絵柄は特別に上手いわけでなく、下手でもない。
テーマはバレーボールで、特に目新しくないし、かといって野球のように使い古しの難しさもない。
あえて言うなら地味。
真面目な熱血スポ根系のはずなのに、キャラがみんな薄い。
でもその代わり、よくある安っぽいヒット作みたいにキャラがいちいち名言を吐こうとしたりしない。

つまり地味なので読まない人はまったく1回も読まずにいるパターンのマンガである。
スポーツマンガが連載誌の看板タイトルになるには、主人公のキャラが濃く、それを支える脇も全員個性的、とかそういうウケやすい要素が必要なのだが、それを踏襲せずに、かといってスタイリッシュ系やクール系キャラとかが出てくる子供向けのアレともまた違う、今どき珍しい作風。

キャラの一人一人に、区別しやすいように明らかなイジりやすい見た目の特徴が与えられてるにもかかわらず、作中でそれらの特徴に触れる描写はほぼ皆無。
連載が始まってからかなり順調に回を重ねてきているのに、どのキャラがどういう性格なのか、という分かりやすい単純さがない。
その代わり、どのキャラがどんなバレーボール経験をしてきたのか、という説明に関してはそれぞれかなり詳しく触れられている。
なので、読者にはキャラのプレースタイルやポジションがより強く印象づけられることになる。

けれどもそこに必然的に付随するはずの、キャラの心の動きはとても薄い。
ないわけではなく、登場回にそれぞれ丁寧に描かれてはいる。
しかし作家に照れがあるのだろうか、普通の少年マンガだとキャラの性格を示すネタはクドいほどに何度も繰り返されるが、この作品に関しては、キャラ登場回に一度きり。
もしかしたら、長いスパンで繰り返される天丼ネタなのかも知れないけれど、これまでのところはそれを予感させる要素は出てこない。

この薄さは、現代の少年マンガ的なるものとはやや異なっている。
そして、それが功を奏してスピード感と妙なリアリティが生まれている。

現代の少年マンガというのは、毎週、毎週、ストーリーはわずかずつしか進まないのに、そこに生じるキャラの感情の動きがクドいほど激しく描かれ、何かにつけてくっさいくっさい名言を吐こう吐こうとして、ウザキャラがドヤ顔しまくる、というのが典型で、ハリガネサービスとは別の意味で、「薄い」。
スポーツに付随する感動が描きたいのでなく、安いドヤ顔名言が先にあって、それを描きたいから道具としてスポーツを持ち出してるのが丸わかりなので、悪いけどそういうのは完全スルーのおっさんである。

ハリガネサービスはそういう意味では、濃い。
主人公たちの、泣いたり喚いたりブチ切れたり、みたいな、声がデカいだけの軽いやりとりは少ない。ゼロではないが、その描写がメインになることはない。
少なくても良いと考えてのことなのか、それともこの作家ができる精一杯の感情描写がこれなのかは分からない。
その代わり、ストーリーはどんどん進む。
そりゃ余計なクサい青春小芝居を省いてるんだから当たり前なんだが、読んでる方としては、もちろんそのほうがずっと面白い。
面白いので長く続いて欲しいが、それにしてもストーリー展開が早すぎて、もう少しだけ臭い小芝居を挟んだ方が作品のカロリーが上がっていいんじゃないの?と思うほどである。

強いて例えるなら、ちばあきおの「プレイボール」みたいな系統の筋肉質マンガなのだ。
ぜい肉が付いていない。
「プレイボール」は野球というスポーツそのものの魅力が純粋に描かれた傑作だが、ハリガネサービスも、バレーボールというスポーツ以外の要素をほとんど保留したまま同じテンションを保ち続けている。
つまり、バレーボールの魅力を描くだけでここまで乗り切って来たということ。
バレーボールに限らず、あるスポーツの魅力は、それだけを描いても十分に作品として成り立つほど「濃い」ということが示されているのが、この作品の不思議な魅力の源泉だと思う。

そこらの薄い少年マンガとは真逆の方向性で、いつでも突然の終わりを予感させるようなカロリーの低さとスピード感を保ったまま、一年以上をこなしたハリガネサービスは、このまま続けば名作になるかも知れないとオッサンは思っている。

ハリガネサービス 1 (少年チャンピオン・コミックス)

49 【感想文】 『ドミトリーともきんす/高野文子』を読んで

高野文子さんのあたらしい仕事、『ドミトリーともきんす』を読みました。

数年ぶりの新作はなんと通俗科学解説書を紹介するマンガ。
あとがきで「自分から離れて描いた」という通り、科学、という、客観と論理だけがルールである世界に触れたときの感触を絵に落とし込んだらこうなった、と思うようなミニマルな表現に徹した作品です。
描線に必要以上に表情が生まれないよう、製図ペンを使用して一定のタッチが再現されるように工夫したとのこと。


ドミトリーともきんす 高野文子


これまでの高野文子さんの作品が、読者の情動を揺さぶり長く記憶に残ったのは、「目」の表現が凄いからだったと思っていますが、今回はその点かなり突き放した描写になってます。
とはいえ、決して記号化されすぎてはおらず、絶妙な匙加減で人物をキャラクタライズしています。

登場人物と読者との距離感を一定以上詰めないようにさせる漫画表現と、短いワンエピソードだけを取り上げて続いていく連作短編というスタイルは、まさに、かつて私たちが通俗科学解説書を1つ1つ読み進めたときの、あの「涼しい」感覚を呼び起こさせてくれます。

ではこの作品には、これまでの高野作品のような強く心を打たれる物語性はないのでしょうか?
いや、さにあらず、ちゃんとあります。
例えば最初の短編『球面世界』。
ハイハイができるようになったばかりの娘とマンションの一室で過ごしている若いお母さんが、世界が14歩で一周できてしまうほど小さな球体だったらどうなるの?という思考実験をする話です。
この「14歩」というのは、親子が住んでいるマンションの端から端まで歩くのにかかる歩数、つまり彼女が想像している球面世界は、「この部屋が世界のすべてであるような人が居るとしたら、その人にとって世界というのはどのように見えるのだろうか?」という思考実験にもなっています。

さて、そのような世界観を持った人が、まさに彼女の目の前に居ます。ハイハイをしだした娘です。
赤ちゃんにとっては、この小さな部屋の端から端までが、世界の全てであり、広大な宇宙そのものなわけで、さらにお母さんにとっては、そんな娘が、この世の全てであり、すべての感情や注意を引きつけて止まない根源的な事象の地平線でもあるわけです。

つまりこの作品というのは、「ある若いお母さんが居て、家で赤ちゃんと過ごすかたわら、科学的な思考実験をしている」という物語の枠がまずひとつあって、その外側には、「もしも若いお母さんが科学的な思考実験をするとしたら、やっぱり、自分の赤ちゃん目線を通じてだろう」という作家自身の思考実験がネストされているわけです。

分かりやすく言うと、科学という「客観」を、赤ちゃん目線という究極の「主観」視点を通じて思索する、という対比がされてるんですね。
若いお母さんというのは、何をするにも子供が一番最初にあって、たとえ客観と論理がルールである科学の考察をする際であっても、子供への愛情という重力からは逃れられないということ、何を見るにつけても赤ちゃん目線に感情移入した上での主観視点で見てしまう・・・そんな情景を描いたのがこの作品だと私は受け取りました。

高野文子さんはこれまでもたびたび、視点を予告無しに人間以外のものに切り替えたりしてきましたけど、親切なことに作中で必ず答え合わせがあるおかげで、まるで遠い昔、友達にワッとおどかされた時のような、新鮮さと多幸感と予定調和的な安心が感じられるという、すんごい効果をもたらしていました。
今回の『ドミトリーともきんす』には、そういう直接的な心に訴えかけてくる仕掛け描写はほぼ皆無で、シンプルなつくりになっています。
ですが、その中に時々胸のすくような小さな感動や驚きや笑いが含まれていて、それらは確かに、科学書に時々含まれている質のものでもあるのです。
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